「希望とは、神は决して里切ることがないと知ること」教皇一般謁见
教皇レオ14世は、8月13日(水)、バチカンで一般謁见を行われた。
ローマはここ数日厳しい暑さに见舞われ、一般謁见の会场は、当初予定されていた圣ペトロ広场から、パウロ6世ホールと圣ペトロ大圣堂の2か所に変更された。
参加者多数のために、一部の人々は、パウロ6世ホール前の広场に集い、设置された大型スクリーンに见入りながら教皇のカテケーシスに耳を倾けた。
教皇は屋外の巡礼者たちを気遣われ、メイン会场のパウロ6世ホールでの謁见开始前と终了后に、これらの人々のもとを访れ、挨拶と祝福をおくられた。
続いて、教皇は圣ペトロ大圣堂に向かわれ、ここでも巡礼者らとの交流のひと时を持たれた。
この日、謁见中の「わたしたちの希望、イエス?キリスト」をめぐるカテケーシスでは、「滨滨滨.イエスの过越 2.里切り『まさかわたしのことでは』(マルコ14,19)」をテーマに、教皇による考察が行われた。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
亲爱なる兄弟姉妹の皆さん
イエスの最后の日々の歩みを追いながら、福音を学び舎とするわたしたちの旅を続けましょう。今日は、亲密かつ紧张感のみなぎる、深い真理に満ちた场面を考察したいと思います。过越の食事の时、イエスは十二人の使徒のうちの一人が自分を里切ろうとしていると明らかにされました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一绪に食事をしている者が、わたしを里切ろうとしている」(マルコ14,18)。
これは强い言叶です。イエスがそれを言われたのは、非难のためではなく、爱が真実のものであるからには、真実なしではありえないことを示すためでした。少し前、食事のために入念に整えられた高间は、突然、沉黙の悲しみに包まれました。それは、问いや、疑い、脆さからなる悲しみでした。それは、わたしたちにも経験のある悲しみです。最も大切にしている绊に里切りの影が差す时の悲しみです。
それにもまして、これから起きるであろうことを语るイエスの口调は惊くべきものでした。イエスは声を荒げたり、指差したり、ユダの名前を口にすることもありませんでした。それは、谁をも自问に招く话し方でした。そして、まさにそのとおりになりました。圣マルコはこう记しています。「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(マルコ14,19)。
亲爱なる友人の皆さん、「まさかわたしのことでは」というこの问いは、おそらくわれわれが自分自身に向けることができる、最も诚実な问いの一つでしょう。これは素朴な者の问いではなく、自らの脆さを知った弟子が発する问いです。それは、罪を犯した者の叫びではなく、爱したいと望みながらも、伤つけることもできると知る者のつぶやきです。そして、この自覚のもとに、救いの道は始まるのです。
イエスは、辱めのために告発するのではありません。イエスが真実を言われるのは、救うことを望まれるからです。救われるためには、感じなければなりません。自分も関係していること、すべてにもかかわらず爱されていること、悪は现実にあっても、それが胜利することはないことを感じなくてはなりません。深い爱の真理を知った者だけが、里切りによる伤も受け入れることができるのです。
弟子たちの反応は、怒りではなく、悲しみでした。愤るのではなく、悲しみを感じていました。それは、自分も関係あるかもしれないという、実际の可能性から生じる悲しみです。まさにこの悲しみを真挚に受け止めるならば、それは回心の场となるのです。福音は、悪を否定することを教えず、生まれ変わるための痛みを伴う机会としてそれを认识するように教えます。
そして、イエスはわたしたちを不安にさせ、考えさせるような言叶を加えます。「人の子を里切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マルコ14,21)。これは厳しい言叶です。しかし、その意味をよく理解する必要があります。これらの言叶は呪いではなく、むしろ悲しみの叫びなのです。それは、ギリシャ语においては、嘆きや、率直で深い怜みの叫びとしての响きを持っています。
わたしたちは人を裁くことに惯れています。しかし、神は苦しむことを受け入れられるのです。悪を见ても、復讐されず、悲しまれるのです。「生まれなかった方が、よかった」という言叶は、超越论的な否认ではなく、わたしたちそれぞれが认めることのできる真理です。もしわたしたちが自分たちを创造した爱を否定し、その里切りによって自分自身に対し不诚実になるなら、わたしたちはこの世に生まれた意味を本当に见失い、救いから自らを除外してしまうのです。
しかし、まさに最も闇が深いところで、光は消えることなく、むしろ、辉き始めます。なぜなら、自分たちの限界を认めてこそ、そして、キリストの苦しみに触れてこそ、わたしたちはようやく生まれ変わることができるからです。信仰はわたしたちを罪の可能性から免れさせはしませんが、そこから抜け出すための道をいつも与えてくれます。その道とはいつくしみの道です。
イエスはわたしたちの弱さを前に惊かれることはありません。いかなる友情も里切りの危険から逃れられないことをよくご存知です。それでも、イエスは信頼し続けます。ご自分の弟子たちと食卓を囲み続けられます。自分を里切る者に対しても、パンを裂くことを諦めません。これが神の沉黙の力です。たとえご自分がただ一人残されることをご存知でも、神が爱の食卓を离れることはありません。
亲爱なる兄弟姉妹の皆さん、今日、わたしたちも真摯に自問しようではありませんか、「まさかわたしのことでは」と。自分に対するとがめを感じるためではなく、真理のための場所を心にあけるためです。救いはここから、神における信頼を裏切るのは自分自身かもしれないという自覚から、また同時に、その信頼を受け入れ、守り、新たにするのも自分自身であるという自覚から始まるのです。
つまるところ、これこそが希望なのです。それは、たとえわたしたちが过ちを犯しても、神は决して里切ることがないと知ることです。たとえわたしたちが里切ることがあっても、神はわたしたちを爱し続けられます。谦逊で、伤つき、常に诚実なこの神の爱にたどり着くことができるならば、そこでわたしたちは真に生まれ変わることができるのです。そして、もう里切り者としてでなく、常に爱された子として生き始めるのです。