「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」をテーマに、教皇一般謁见
教皇レオ14世は、6月25日(水)、バチカンの圣ペトロ広场で一般謁见を行われた。
謁见中の「わたしたちの希望、イエス?キリスト」をめぐるカテケーシスで、教皇はイエスによる「いやし」の考察として、「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」のエピソード(マルコ5,21-43)を取り上げられた。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
亲爱なる兄弟姉妹の皆さん
今日も希望のしるしとしてのイエスのいやしを観想しましょう。イエスの持っておられるその力は、わたしたちもイエスご自身との関係に入る时、それを体験することができます。
今日広がる病は、生きることの疲れです。现実はわれわれの目にはあまりに复雑で、重く、向き合うことが困难にさえ见えます。こうして、わたしたちは明かりを消して、目覚めた时には物事は违っているだろうとの幻想のうちに眠りに落ちるのです。しかし、现実とは向き合わなくてはなりません。イエスと一绪ならばわたしたちにはそれがしっかりとできるでしょう。
また、时には、他者にレッテルを贴ろうとする人たちの评価のために身动きがとれないこともあります。
これらの状況は、マルコ福音書のある一節に見ることができるかもしれません。その一節には、二つのストーリーがからみ合っています。その一つは病のために死の床にある12歳の少女の話、もう一つはまさに12年間出血が止まらず、いやしてもらうためにイエスを探す女性の話です(参照 マルコ5,21-43)。
この2人の女性の登场人物の间に、福音记者は少女の父亲を配置しています。彼は家にいて娘の病気を嘆くのではなく、外に出て助けを求めます。彼は会堂长でしたが、自分の社会的地位を理由に过度の要求をすることはありませんでした。待たなくてはならない时は、忍耐を失わずに待っていました。そして、人々が来て、彼の娘は亡くなった、もう先生を烦わすには及ばない、と言っても、彼は信仰と希望を保ち続けました。
この父亲とイエスの会话は、长い间出血を患っている女性によって中断されました。この女性はイエスに近づき、イエスの服に触れました(マルコ5,27)。この女性は勇気を出して人生を変える决断をしました。皆は彼女に离れているように、姿を见せないようにと言い続けていました。人々はこの女性に隠れて一人でいるようにと叱りました。时にはわたしたちも他者の评価の犠牲になることがあります。彼らはわたしたちに无理やり、わたしたちのものとは违う服を着せようとするのです。するとわたしたちは调子を崩して、外に出ることができなくなるのです。
自分の中にイエスならいやしてくださるという信仰が芽生えたとき、この女性は救いの道に入りました。その时、彼女は外に出てイエスを探すための力を见出しました。せめてイエスの服だけでも触れられるように近づきたいと思ったのです。
イエスの周りには大势の群众がおり、多くの人々がイエスに触れましたが、それでも彼らには何も起こりませんでした。それに対し、この女性がイエスに触れると、彼女はいやされました。どこにその违いがあるのでしょうか。圣アウグスティヌスはイエスの立场からこの箇所を解説しています。「群众はわたしの周りに群がるが、信仰はわたしに触れる」(『讲话』243,2,2)。わたしたちがイエスに向かって信仰を表わすたびに、イエスとの接触が生まれ、すると、ただちにイエスからその恵みがあふれます。わたしたちがそれに気づかない时があっても、ひそかに现実に恵みはわたしたちに届き、人生を内侧から少しずつ変えていくのです。
おそらく今日も、多くの人がイエスの力を真に信じることなく、表面的にイエスに近づいていることでしょう。教会の床を踏んでも、心は别のところにあったりします。この静かな、名もない女性は、自分の恐れに打ち胜ち、イエスの御心に、病気のために不浄と考えられていたその自分の手で触れました。すると、すぐに病気がいやされたのを感じました。イエスは言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(マルコ5,34)。
その時、あの父親に彼の娘が亡くなったとの知らせがもたらされました。イエスは父親に言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5,36)。家に行くと人々は大声で泣きわめいていました。イエスは言われます。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」(マルコ5,39)。そして、少女が横たわる部屋に入り、その手を取って、《タリタ、クム》「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言われました。少女は起き上がり、歩き出しました(参照 マルコ5,41-42)。イエスの行為は、イエスがあらゆる病気をいやすのみならず、死からも目覚めさせることをわたしたちに教えてくれます。永遠のいのちである神にとって、肉体の死はいわば眠りのようなものです。真の死とは、魂の死です。わたしたちはそれを恐れるべきです。
最後にもう一つ考察しましょう。 子供を生き返らせた後、イエスは両親に食べ物を与えるようにと言われました(参照 マルコ5,43)。これは、イエスがわたしたちの人間性に寄り添っておられることの、もう一つの非常に具体的なしるしです。しかし、これをより深い意味で解釈し、自問することもできます。われわれの若者たちが精神的危機に見舞われ、霊的な栄養を必要としている時、わたしたちはそれを与えることができるでしょうか。わたしたち自身が福音によって養われていないならば、どうしてそれができるでしょうか。
亲爱なる兄弟姉妹の皆さん、人生には失望や意気消沈の時があり、死を経験することもあります。福音書のあの女性、あの父親から学びましょう。イエスの所へ出かけていきましょう。イエスならわたしたちをいやし、生き返らせることがおできになります。イエスこそ、わたしたちの希望です。