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教皇レオ14世 2025年5月28日の一般謁見 バチカン?聖ペトロ広場 教皇レオ14世 2025年5月28日の一般謁見 バチカン?聖ペトロ広場  (@Vatican Media)

「善いサマリア人」のたとえを観想、教皇一般謁见

教皇レオ14世は、5月28日(水)、バチカンで一般謁见を行われた。

 教皇レオ14世は、5月28日(水)、バチカンの圣ペトロ広场で一般謁见を行われた。

 レオ14世による、今回で2回目の一般謁见には、约4万人の巡礼者が参加した。

 教皇は謁见のはじめに、特别车パパモービルで広场をめぐり、参加者らと交流された。

 その后、「わたしたちの希望、イエス?キリスト」をめぐるカテケーシス中の「イエスの生涯?たとえ」の考察で、「善いサマリア人」のたとえをテーマに讲话された。

 カテケーシスの要旨は次のとおり。

 亲爱なる兄弟姉妹の皆さん

 物事の见方を変え、希望に向けて自らを开く机会をつくる福音のたとえをめぐり、観想を続けてまいりましょう。しばしば、希望が持てないのは、ある种の硬直した、闭锁的な考え方への固执が原因であったりします。こういう时、福音のたとえの数々は、物事を违った视点から见ることを助けてくれます。

 今日は、法律の専門家として経験も知識もあるが、自分自身に集中し、他者には気づかないために、視点を変える必要がある人物について話しましょう(参照 ルカ10,25-37)。実際、この人は、いかに永遠の命を「受け継ぐ」ことができるのか、それをまぎれもない権利のように捉えた表現をもって、イエスに質問しています。しかし、この問いの背後には、まさに注意すべきことが隠されています。彼がイエスに唯一意味を尋ねた言葉は、「隣人」という言葉でした。それは文字通り「近くにいる人」という意味です。

 この问いのためにイエスは一つのたとえを语られました。このたとえは、「わたしの隣人とは谁ですか」という问いを変容させるための、わたしを「爱してくれる人は谁か」という问いから「爱したのは谁なのか」という问いに移るための、行程となるものです。最初の问いは未熟なものであり、后の问いは自身の人生の意味を理解した大人の质问です。

 最初の问いは、わたしたちが隅で様子を见ながら言う质问です。后の问いは、わたしたちが一歩を踏み出せるように背中を押す质问です。

 イエスが语るたとえは、ある道を舞台としています。その道は人生のように険しく、容易に通过できない道です。それはある人が、山の上の町、エルサレムから、海抜より低い町、エリコへと下っていく道です。もうそれだけで、そこで起き得ることが予告されているかのようです。事実、その人は追いはぎに袭われ、殴られ、持ち物を夺われ、半杀しの状态で道に残されました。それは、ある状况や人々、时には信頼していた人たちからさえも、すべてを夺われ、置き去りにされる时のような体験です。

 しかし、人生とは出会いでできています。その出会いを通して、わたしたちの本来の姿が现れるのです。わたしたちは他者を前にして、その人の困难な状况や弱さを前にして、どのように振舞うかを决めることができます。その人の世话をするか、あるいは见ないふりをするかです。

 ある祭司と、あるレビ人が、前述の道を下って行きました。彼らはエルサレムの神殿に仕える人々で、圣なる空间で暮らしていました。それでも、宗教的実践がおのずと怜み深さにつながるわけではありません。実际、同情とは、宗教的な问题である以前に、人间性の问题です。わたしたちは信者である前に、人间であるように召されています。

 その祭司とレビ人は、エルサレムに长く逗留した后で、早く家に帰ろうとしていたのかもしれません。われわれの生活にも见られるこの急ぐ态度こそが、多くの场合、わたしたちに同情を感じさせることを妨げているのです。自分の旅を最优先にする人は、他者のために立ち止まる余裕はありません。

 しかし、そこに本当に立ち止まることのできる人がやって来ました。それは一人のサマリア人でした。サマリア人はユダヤ人から見下される存在でした(参照 列王記下17)。このサマリア人がどちらに向かっていたかは明らかではありませんが、ただ「旅をしていた」とあります。ここでは宗教性は関係ありません。サマリア人が立ち止まったのは、単に助けを必要とする他者を前にしていたからです。

 怜れみとは、具体的な态度を通して表されるものです。福音记者ルカは、わたしたちが「善い」ものと呼ぶサマリア人のその行為についてくわしく记しますが、そこにいるのは単に一人の人间です。サマリア人が道に倒れた人のそばに行ったのは、谁かを助けたいならば、近寄らずにはいられないからです。自分も関係し、触れて、おそらく自らも汚れなければならないからです。

 サマリア人は、倒れた人の伤に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せました。つまり、その人をかついで乗せたのです。本当に谁かを助けたいならば、他者の苦しみの重みを感じる心构えがいります。サマリア人はその人を宿屋に连れて行き、デナリオン银货二枚を払いました。それは、ほぼ二日分の労働の赁金でした。さらに、サマリア人は、费用がもっとかかったら、帰りがけに払うことまで请け负いました。なぜなら、他者とは、届けるだけの荷物ではなく、世话をするべき谁かだからです。

 亲爱なる兄弟姉妹の皆さん、いつわたしたちも自分の旅を中断して、憐れみを持つことができるでしょうか。いつ道端に傷ついて倒れたその人が、わたしたち自身でもあると気づくことができるでしょうか。イエスがわたしたちを介抱するために毎回立ち止まってくださったこと思い出すならば、わたしたちもより憐れみ深くなれるでしょう。

 祈りましょう。わたしたちが人间性において成长し、互いの関係がより本物の、怜れみに満ちたものとなりますように。

 わたしたちがキリストご自身と同じ思いをもっと持てるように、キリストの圣心にその恵みを愿いましょう。

 

28 5月 2025, 18:43

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