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教皇フランシスコ 2024年11月6日の一般謁見 バチカン?聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2024年11月6日の一般謁見 バチカン?聖ペトロ広場  (Vatican Media)

圣霊とキリスト教の祈りをテーマに、教皇一般謁见

教皇フランシスコは、11月6日(水)、バチカンで一般謁见を行われた。

 教皇フランシスコは、11月6日(水)、バチカンの圣ペトロ広场で一般謁见を行われた。

 この謁见で教皇は、「圣霊と花嫁。圣霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと导く」を主题とするカテケーシスとして、「わたしたちのために取り次ぐ圣霊、圣霊とキリスト教の祈り」をテーマに讲话された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

 圣霊の圣化する働きは、御言叶や秘跡を通してだけでなく、祈りにおいても表される。今日はこのことについて考察したい。圣霊はキリスト教の祈りの中で、主体であると同时に、対象でもある。圣霊は祈りをもたらす方であると同时に、祈りによってもたらされる方である。わたしたちは圣霊を受けるために祈り、奴隷ではなく、神の子として真に祈るために圣霊を受ける。

 まず、わたしたちは圣霊を受けるために祈らなければならない。まさにこのことについて、イエスは福音书の中で述べておられる。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、天の父は求める者に圣霊を与えてくださる」(ルカ11,13)。新约圣书において、いつも祈る时に圣霊が降りて来るのを见ることができる。イエスがヨルダン川で洗礼を受けて「祈っておられると」(ルカ3,21)圣霊が降ってきた。また、「心を合わせ热心に祈っていた」(使徒言行録1,14)弟子たちの上に、圣霊が降临した。

 祈りは、神の霊に対してわたしたちが持つ唯一の「力」である。カルメル山でバアルの偽預言者たちは自分たちのいけにえの上に天からの火を祈ったが何も起きなかった。エリヤが神に祈ると、主の火が降り、捧げ物をなめ尽くした(参照 列王記上18,20-38)。教会はこの模範に忠実に従う。教会は聖霊に向かって常に「来てください」と祈り求める。特にミサにおいて、露のように降り、パンとぶどう酒を聖化することを祈る。

 しかし、圣霊と祈りの関係について、より重要で、励ましになる别の一面がある。圣霊は真の祈りをもたらす方である。「”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言叶に表せないうめきをもって执り成してくださるからです。人の心を见抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、圣なる者たちのために执り成して下さるからです」(ローマ8,26-27)。

 わたしたちの祈りを表す言叶に、“mali, mala, male petimus”というものがある。 すなわち、悪い者であるために(mali)、間違ったことを (mala)、间违った方法で(male)愿う。イエスは言われた。「何よりもまず、神の国と神の义を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6,33)。それに対し、わたしたちは神の国を求めるのを忘れて、自分たちの利益を何よりも求める。

 圣霊はわたしたちの弱さを救いに来られる。しかし、さらに重要なことがある。圣霊は、わたしたちを神の子と呼び、「アッバ、父よ!」(ローマ8,15、ガラテヤ4,6)と叫ばせてくださる。わたしたちは神を通して、神に祈る。

 まさに祈りの中で、聖霊はご自分を 「パラクレイトス」、すなわちわたしたちの弁護者、擁護者として現される。御父の前でわたしたちをとがめず、弁護してくださる(参照 ヨハネ16,8)。しかし、それはわたしたちが御父のいつくしみの喜びを味わうためであり、不毛な罪悪感でわたしたちを破滅させるためではない。わたしたちの心が何かのために自分を非難する時でさえ、聖霊は、「神はわたしたちの心よりも大きい」(参照 1ヨハネ3,20)ことを思い出させてくださる。

 圣霊はわたしたちのために执り成してくださるが、同时にわたしたちが兄弟のために执り成すことも教えてくださる。この祈りが特に神に喜ばれるのは、それが最も无偿で无欲のものだからである。一人ひとりが皆のために祈れば、皆が一人ひとりのために祈ることになり、祈りは倍増すると、圣アンブロジオは指摘している。

 教会において、特にこの圣年の準备にあたり、非常に大切で必要な务めがある。それは、パラクレイトスと一致して、神のご计画に従い、圣人たちの取り次ぎを祈ることである。

06 11月 2024, 18:26

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