「神から再出発しよう」教皇、圣年の巡礼者への謁见で
教皇フランシスコは、圣年の巡礼者のために、週末の謁见を开始された。
この謁见は、圣年中にローマを访れる多くの巡礼者のために、毎週水曜日に行われる一般謁见に加えて、隔週を目安に土曜日に开催されるもの。
教皇によるこの「圣年の土曜日の謁见」の第一回目が、1月11日(土)、パウロ6世ホールを会场に行われた。
2025年の圣年のテーマ「希望の巡礼者」を踏まえ、教皇はこの謁见で「希望」を様々な角度から考察する讲话をスタートさせた。
教皇の讲话の要约は以下のとおり。
皆さんの多くは、「希望の巡礼者」として、ここローマに来られました。今日、皆さんと「圣年の土曜日の謁见」を始めたいと思います。この謁见は、世界のいたる所から、新たな始まりを求めてやって来るすべての人を歓迎し、抱拥するものです。事実、圣年とは新たな始まりです。それはすべての人にとって、神から新たにスタートする可能性を意味するものです。
これらの土曜日の謁见では、希望が持ついろいろな侧面に焦点を当てていきたいと思います。希望とは対神徳です。ラテン语で「惫颈谤迟耻蝉(徳)」とは「力?能力」を意味します。希望とは、神から来る力なのです。すなわち、希望とは、人に备わっているかどうかの、习惯や性格のことではありません。それは愿い求める力なのです。わたしたちが巡礼するのはそのためです。わたしたちは巡礼を通して、人生の歩みを再び始めるための赐物を愿うのです。
わたしたちは間もなく「主の洗礼」の祝日を記念します。主の洗礼という出来事は、わたしたちに「偉大な希望の預言者」であった洗礼者ヨハネについて考えさせずにはいられません。イエスは「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(参照 ルカ7,28)と言われました。
この言叶から、なぜ多くの人が人生を新たにしたいとの愿いのうちにヨハネのもとに集まっていたのかがわかります。ヨハネの人となりは実に伟大で、信頼に足るものでした。今日わたしたちが圣なる扉をくぐるように、洗礼者ヨハネもまた、ヨルダン川に入るようにと招いていたのです。
しかし、イエスは洗礼者ヨハネに対する賛辞のすぐ后で、次のようなことを言われます。それはわたしたちに考えさせる言叶です。「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより伟大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは伟大である」(ルカ7,28)。
すべての希望は、この飞跃の中にこそあるのです。希望は、わたしたちにではなく、神の国にかかっています。さらに惊くべきことは、神の国を受け入れることで、谁が伟大かをめぐる新たな秩序がもたらされるということです。これこそわれわれの世界が、皆が、必要としていることです。
イエスがこの言叶を述べた时、洗礼者ヨハネは牢の中にいて、彼の心は问いで満ちていました。わたしたちも巡礼の中に多くの问いをたずさえています。なぜなら、神の国に対抗する「ヘロデ」たちが、いまだ多くいるからです。しかしイエスは、福音の惊くべき掟である「真福八端」という新しい道を示してくださいます。
ではここで问いましょう。自分は、再び始めようという愿いを心に本当に抱いているでしょうか。どういう人が本当に伟大であるのか、イエスから学びたいと思っているでしょうか。神の国では、最も小さい者は、伟大なのです。
洗礼者ヨハネから、再び信じるということを学びましょう。わたしたちが共に暮らす家である、搾取され伤ついた地球への希望、すべての人间にとっての希望は、神が言われる违いの中にあります。神が基準とされる伟大さは普通のものとは异なります。イエスの中に辉き、わたしたちに奉仕と兄弟爱を求め、自分たちの小ささを认めさせる、この神の独创性から再び出発しましょう。そして、小さき人々を见つめ、彼らに耳を倾け、彼らの声となりましょう。これが新たな始まり、わたしたちの圣年なのです。