教皇「福音の『狭い戸口』を勇気をもって通ろう」
教皇レオ14世は、8月24日(日)、バチカンで、お告げの祈りを広场の巡礼者と共に唱えられた。
典礼暦?年间第21主日、教皇は祈りの前の説教で、この日の福音朗読箇所、「狭い戸口から入るように努めなさい」とイエスが教える场面(ルカ13,22-30)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
今日の福音(ルカ13,22-30)の中心をなすものは、「狭い戸口」のイメージです。このイメージは、「救われる者は少ないのでしょうか」と言った人に答えるために、イエスが用いたものです。イエスは言われます。「狭い戸口から入るように努めなさい。 言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(同13,24)。
このイメージからは、最初にいくらかの疑问がわいてきます。もし、神が爱といつくしみの御父として、わたしたちを迎え入れるためにいつも両腕を広げておられるならば、なぜイエスは、救いの戸口は狭いと言われるのでしょうか。
当然、主のお望みは、わたしたちをがっかりさせることではありません。むしろ、主の御言葉は、自分はもう救われたと思っている人々、宗教的実践をしているから、自分は大丈夫だと考えている人々の慢心に揺さぶりをかけるためのものなのです。事実、宗教的行為を実践しても、それが心を変容させない限りは不十分であることを、彼らは理解しませんでした。主は生活から切り離された信仰を望まれず、兄弟に対する愛を生き、正義を実践することにつながらない犠牲や祈りを喜ばれません。そのため、主の御前に出て、主と御一緒に食べたり飲んだりし、お教えを受けた、と誇っても、彼らは主がこうお答えになるのを聞くことになるでしょう。「お前たちがどこの者か知らない。 不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(同上13,27)。
兄弟姉妹の皆さん、今日の福音が投げかける挑戦は素晴らしいものです。わたしたちは信仰から離れている人々を裁いてしまうことがありますが、イエスは「信者の安心」に揺さぶりをかけます。実際、主は、言葉で信仰を告白し、ミサに与ることで主と一緒に食べたり飲んだりし、キリスト教の教えをよく知っているだけでは足りないと言われます。わたしたちの信仰は、生活全体を包容し、自分の選択の基準となり、イエスのように、善において力を尽くし、愛においてリスクを冒すことのできる者に変えてくれる時、それは真のものとなるのです。イエスは成功や権力といった安易な選択をせず、わたしたちの救いのために、十字架の「狭い戸口」を通るほどに、わたしたちを愛し抜かれました。イエスこそ、わたしたちの信仰のものさしであり、イエスと同じ愛を生き、自らからの生活を通して正義と平和のために働きながら、救われるために通るべき戸口です(参照 ヨハネ10,9)。
これは、时には困难で不人気な选択をし、エゴイズムと戦い、他者のために尽くし、悪の论理が胜っているように见える所においても善を守り抜くことを意味します。しかし、この戸口を越えることで、人生が新たな形でわたしたちの前に开けるのを见るでしょう。そして、その时から、わたしたちは神の広い御心と、神がわたしたちために用意してくださった永远の祝宴の喜びの中へと入っていくのです。
福音の「狭い戸口」を勇気をもって通り、それによって、神なる御父の広い爱に喜びと共に自らを开くことができるよう、圣母の助けを祈りましょう。