教皇、日本の司教との集い、ローマ教皇庁大使馆で
11月23日(土)夕方、东京に到着した教皇フランシスコは、都内のローマ教皇庁大使馆で、日本のカトリック司教団との出会いを持たれた。
日本のカトリック教会は、东京?大阪?长崎の大司教区をはじめ、札幌?仙台?新潟?さいたま?横浜?名古屋?京都?広岛?高松?福冈?大分?鹿児岛?那覇の各教区と、全国で16の教区(司教によって管理される教会の管辖上の区域)がある。
日本司教协议会会长、长崎大司教区の高见叁明大司教の歓迎の挨拶に続き、教皇は日本到着后最初の公式の言叶を述べられた。
教皇はこの席で、日本を访れた恵みに喜びを表され、日本の全カトリック共同体に挨拶をおくられた。
また新しい天皇陛下の御即位と、令和の始まりにあたり、日本のすべての人々に挨拶と祈りの言叶を述べられた。
司教らへの讲话の中で、教皇は若い顷から抱いていた日本への共感と爱着について述べると共に、圣フランシスコ?ザビエルの到着に始まる日本の宣教の歴史、圣パウロ叁木と同志殉教者、また福者高山右近ら、先人たちの命を捧げた信仰の証し、潜伏キリシタンの存在などを振り返られた。
教皇は、「希望に燃えた种蒔き、殉教者のあかし、実りを待つ忍耐」を日本の文化と共存した宣教方法を特徴づけてきたものとして指摘。
同时に、インカルチュレーションと対话の希求を日本の教会の特徴として示された。
今回の访日テーマ「すべてのいのちを守るため」に触れた教皇は、「すべてのいのちを守る」とは、第一に、爱のこもった寛大な目をもって、神からゆだねられた民すべてのいのちを爱し、何よりも、この民を神から受けたたまものとして认めることにほかならない、と述べた。
教皇は、日本の教会は小さく、少数派であっても、それが福音宣教の热意を冷ますことのないようにと话し、生活を通したあかしと、诸宗教の伝统との対话の重要性を强调。また外国人労働者への温かい受け入れが、社会に福音をあかしするだけでなく、开かれた教会の証明ともなるだろうと话された。
また、日本の教会は殉教者の教会として、今日の世界の平和と正义の紧急课题において率直に発言できる教会である、とも话された。
そして、教皇は长崎と広岛で原爆犠牲者のために祈り、核兵器廃絶に対する日本の教会の预言的な呼びかけと声を共にしたいと语られた。
教皇は、东日本大震灾の悲剧に见舞われた方々の苦しみを思い、心身の苦しみを抱える人を助け、希望や癒し、和解の福音を伝えることをキリスト者の义务として示された。
また、教皇は、先日の台风の犠牲者と被灾者のために祈られた。
教皇は日本の教会の社会における、特に教育事业を通したあかしと贡献を励まされた。
今日の日本の社会の孤独や絶望、自杀、いじめなどの现実に、いのちを胁かす问题として触れた教皇は、特に若者たちのへの司牧的配虑を愿われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない」というイエスの言叶を引用しつつ、教皇は家庭を巻き込むことのできる宣教、また様々な场所に生きる人々の魂に到达し、寄り添う使徒职のあり方、またそのための育成を励まされた。
日本の司教団との集いにおける、教皇フランシスコの讲话全文は、以下のとおり。
(カトリック中央协议会訳)
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教皇の日本司牧访问
教皇の讲话
日本の司教団との会谈
东京、2019年11月23日
爱する兄弟である、司教の皆さん。
はじめに、ごあいさつせずに入ってきてごめんなさい。わたしたちアルゼンチン人は本当失礼ですね! すみません。皆さんとご一绪できてうれしいです。日本人は几帐面で働き者であることはよく知られていますが、それを目の当たりにしました。飞行机から教皇が降りると、すぐに动いてくれましたね。ありがとうございます。
日本访问という恵みと、皆様の歓迎にとても感谢しています。日本のすべてのカトリック共同体を代表された、髙见大司教様のおことばにとくに感谢いたします。司教様がたとの、この最初の公的な会谈の场をお借りして、皆さんのそれぞれの共同体、そして共同体全体に、信徒、カテキスタ、司祭、修道者、奉献生活者、神学生に、ごあいさつしたいと思います。また、新しい天皇の即位と、令和という新しい时代の幕开けという画期におられる、日本のすべてのかたにも、ごあいさつと祈りをお届けしたく思います。
ご存じかどうか分かりませんが、わたしは若いときから日本に共感と爱着を抱いてきました。日本への宣教の望みを覚えてから长い时间が経ち、ようやくそれが実现しました。今日、主はわたしに、皆さんと同席するという机会を与えてくださいました。わたしは信仰の伟大な証人の足跡をたどる、宣教する巡礼者としてここにおります。圣フランシスコ?ザビエルが日本に上陆してから470年が経ちます。ザビエルが、日本におけるキリスト教布教を始めました。彼を思い出しながら、皆様と心を合わせて主に感谢したいと思います。その感谢は、その后何世纪にもわたって福音の种を蒔き、热意と爱をもって日本の人々に奉仕した、すべての人への感谢です。その献身が、日本の教会に独特の性格を与えました。わたしは、圣パウロ叁木と同志殉教者、また、数知れない试练の中で死に至るまで信仰をあかしした福者高山右近のことを思い出します。迫害の中で信仰を守ろうとするこの献身のおかげで、小さなキリスト教共同体は成长し、坚固になり、豊かな実りを生みました。さらに、长崎の「潜伏キリシタン」のことも思い浮かべてみましょう。彼らは洗礼と祈りと要理教育を通して、何世代にもわたって信仰を守ってきました。それは、その地に辉く真の家庭教会でした。当人たちは意识せずとも、ナザレの圣家族を映し出していたのです。
主の道は、神を忘れまいと努める忠実な民の日常生活の中で、ご自分がいかに「働かれる」かを示しています。沉黙の中に隠れておられますが、圣霊の力と优しさをもって、二人またはそれ以上が、主の名において集まるところには主がおられる(マタイ18?20参照)ということを思い出させてくれる、生きた记忆です。あなたがたの共同体の顿狈础には、このあかしが刻まれています。それはあらゆる絶望に対する特効薬で、目を上げて歩むべき道を示してくれます。皆さんは、迫害の中で主のみ名を呼び続け、主がいかに自分たちを导かれたかを见つめてきた、生きている教会です。
希望に燃えた种蒔き、殉教者のあかし、时が来れば神が与えてくださるはずの実りを待つ忍耐、これらが、日本の文化と共存できた宣教方法を特徴づけたものです。その结果、长い年月を経て、教会の颜が形づくられました。教会は総じて、日本社会からとても评価されています。それは、教会が共通善のために多くの贡献をなしたからです。日本の歴史と普遍教会の歴史の中で重要なあの时代は、长崎と天草地方の教会と集落群が世界遗产に登録されたことでも认められています。ですが何より、皆さんの共同体の魂の生きる记忆として、あらゆる福音宣教の豊かな希望として、评価されるものです。
この司牧访问のテーマは、「すべてのいのちを守るため」です。それは、わたしたち司教の奉仕职というものをよく表しています。司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべてのいのちを守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、わたしたちが目指すべき现场をある程度决定してくれます。
この国での宣教は、インカルチュレーションと対話を希求するという点が特徴的でした。これによって、西欧で発展したものに対し、新しく独自な数々の様式が展開できたのです。周知のことですが、初期のころから、書物、演劇、音楽、あらゆる教材において、ほとんど日本語が使われました。この事実は、初代の宣教師が日本に対して抱いた愛情を示しています。すべてのいのちを守るとは、まず、この愛のこもった寛大な目をもって、神からゆだねられた民すべてのいのちを愛し、何よりも、この民を神から受けたたまものとして認めることです。「愛されるだけで救われるからです。すがるだけで変えていただけるのです」【1】 。これは、効果はあるものの副次的な別の考えではなく、すべてのいのちは無償の恵みだという姿勢をとる助けとなる、具体的な行動規範です。すべてのいのちを守ることと福音を告げることは、切り離された別のものではなく、また相反するものでもありません。互いに呼び寄せ合い、必要とし合っています。どちらも、今日この国で、イエスの福音の光に照らされた信じる民の全人的発展を妨げうるものに、注意を怠らず警戒することを意味します。
日本の教会は小さく、カトリック信者が少数派であることは知っています。しかし、それが、あなたたちの福音宣教の热意を冷ますようではいけません。皆さんに固有な状况において、人々に示すべきもっとも强く明白なことばは、普段の生活の中での目立たぬあかしと、他の宗教的伝统との対话です。日本のカトリック信者の半数以上を占める多数の外国人労働者を亲切に受け入れ世话することは、日本社会の中で福音のあかしとなるだけでなく、教会があらゆる人に开かれていることの証明にもなります。わたしたちのキリストとのきずなは、他のどんな结びつきやアイデンティティよりも强く、あらゆる现実のもとに届き触れうるものであることを示すからです。
殉教者の教会は、何でも率直に话すことができます。とくに、この世界の平和と正义という紧急の课题に取り组む际にはなおさらです。わたしはすぐに、长崎と広岛を访问いたします。そこで、この二つの町の被爆者のために祈ります。また、核兵器廃絶への皆さんの预言的ともいえる呼びかけに、わたしも同调を表明したく思います。人类史に残るあの悲剧の伤に、今なお苦しんでいる人々、また「〔地震、津波、原発事故という〕叁重の灾害」の犠牲者のかたがたにもお会いしたいと思っています。长期にわたる彼らの苦しみを见ると、人として、そしてキリスト信者として、わたしたちに课された义务をはっきり自覚させられます。身体や心に苦しみを抱えている人を助け、希望と治癒と和解という福音のメッセージを、すべての人に伝えるという义务です。灾害は人を选びませんし、身分も问いません。ただ、その激しい破壊力をもって袭いかかります。多くの人命を夺い甚大な损害をもたらした先日の台风もそうです。亡くなったかたがたとそのご家族、自宅や家や财产を失ったすべての人を、主のいつくしみにゆだねましょう。日本で、そして世界中で、あらゆるいのちを神からのかけがえのないたまものとして守るために、臆することなく声を上げていく使命を果たせますように。
皆さんを励ましたいと思います。日本のカトリック共同体の、社会全体の中での福音の明快なあかし、それを确実にするよう努力を続けてください。信頼を得ている教会の教育事业は、福音宣教の有効な手段であり、非常に幅広い知的?文化的潮流に寄与しています。贡献の质は、当然のことながら、そのアイデンティティと使命とを、どれだけもり立てるかにかかっています。
わたしたちは、日本の共同体に属する一部の人のいのちを胁かす、さまざまな厄介ごとがあることを自覚しています。それらは、いろいろな理由によるものの、孤独、絶望、孤立が际立っています。この国での自杀者やいじめの増加、自分を攻めてしまうさまざまな事态は、新たな形态の疎外と心の混迷を生んでいます。それがどれほど人々を、なかでも、若い人たちを苛んでいることでしょう。皆さんにお愿いします。若者と彼らの困难に、とくに配虑してください。有能さと生产性と成功のみを求める文化に、无偿で无私の爱の文化が、「成功した」人だけでなくどの人にも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化が、取って変わるよう努めてください。日本の若者は、自分たちの热意とアイデアと力をもって、またよい教育と周囲のよい助けを得て、同时代の仲间にとって大切な希望の源となり、キリストの爱を生き生きとあかしする生きた証人となることができます。ケリグマ(福音の告知)を创造的に、文化に根ざした、创意に富んだしかたで行うなら、それは理解を求めている大势の人に强く响くでしょう。
収穫は多いけれども働く人は少ないことを知っています。だからこそ、皆さんを励ましたいのです。家庭を巻き込む宣教のしかたを考え、生み出し、促すことです。またつねに现実を直视しつつ、人々がいる场にまで届くような养成を促进することです。どんな使徒职の出発点も、人々が普段の生活をしている、その场から生まれます。その场所に、つまり、町中や仕事场、大学の中にいる人々のもとにまで行って、思いやりとあわれみの福音を携え、わたしたちに任された信者たちに寄り添わなければならないのです。
皆さんの教会を访问し、ともに祭仪を行う机会をくださったことに、あらためて感谢いたします。ペトロの后継者は、日本の教会の信仰を强めたいと思っていますが、同时にまた、信仰をあかしした多くの殉教者の足跡に触れ、自分の信仰をも新たにしたいと思っています。主がこの恵みをわたしに与えてくださるようお祈りください。
主が皆さんと、皆さんを通して、それぞれの共同体を祝福してくださるよう祈ります。どうもありがとう。