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教皇一般謁見(写真資料) 教皇一般謁見(写真資料)  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

イエスと金持ちの男の出会いをテーマに、教皇一般謁见カテケーシス

教皇フランシスコの、4月9日(水)の一般謁见のカテケーシスのテキストが、バチカン広报局より発表された。

 教皇フランシスコが、4月9日(水)の一般謁见のために準备したカテケーシスのテキストが、バチカン広报局より発表された。

 この日は、「わたしたちの希望、イエス?キリスト」をめぐるカテケーシスの「第2章 イエスの生涯?出会い」の4回目として、マルコ福音书10章に语られるイエスと金持ちの男との出会いが取り上げられた。

 カテケーシスの要旨は次のとおり。

 今日は、福音书が语るもう一つのイエスの出会いを考察しよう。しかし、今回イエスが出会う人物には、名前がない。福音记者マルコは、この人物を単に「ある人」(10,17)と伝えている。この人は若い顷から戒律を守ってきたが、自分の人生の意味をまだ见出せず、それを探し求めていた。热心な见かけに関わらず、実は心底まで决断できない人だったのかもしれない。わたしたちの行為や、犠牲、成功を超えて、幸せであるために本当に重要なものは、心に抱いているものである。ある船が外海を航海するために、港を后にする必要があるならば、たとえそれが素晴らしい船で、优れた乗组员に恵まれていても、それを引き留めている锚を上げなければ、出航することはできない。この人は自分で立派な船を作りながら、港に停泊したままだったのである。

 イエスが旅に出ようとされると、この人は走り寄って、ひざまずいて寻ねた。「善い先生、永远の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10,17)。この人の言叶の动词に注目しよう。「受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。律法を守っても、自分が救われたという幸福と安心はもたらされず、それゆえ彼は师イエスに寻ねた。この人の言叶で印象的なのは、「无偿」という概念がないことである。すべては义务によって得られるかのようである。すべては义务である。永远の命は彼にとっては遗产のように、决まりごとを绵密に守ることで、権利として得られるものだった。しかし、たとえそれが善いこころざしからであったとしても、このように生きたところで、爱が入る余地はどこにあるのだろうか。

 いつもそうであるように、イエスは外见を超えて物事をご覧になる。この人がイエスの前に申し分のない人となりを示したのに対し、イエスはそれを超えて内面を见つめられる。マルコが用いる动词「见つめる」(マルコ10,21)は大変意味のあるものである。イエスはわたしたち一人ひとりの内面をご覧になり、ありのままのわたしたちを爱してくださる。では、イエスはこの人の中に何をご覧になったのか。イエスが、わたしたちの中をご覧になる时、わたしたちの怠りや罪にも関わらず、何をご覧になるのか。イエスはわたしたちの脆さと同时に、ありのままを爱されたいというわたしたちの愿いを见つめられる。

 福音書は、イエスはこの人を見つめ、「慈しまれた」(参照 マルコ10,21)と言う。イエスは、ご自分に従うようにと招く前から、この人を慈しまれた。イエスは彼そのものを慈しまれた。イエスの愛は無償である。それはこの人がこだわっていた功績に準じる論理とはまさに反対であった。このように神の恵みによって無償で愛されていることに気づく時、わたしたちは真の幸福を知る。これはわたしたちの関係においても同様である。愛を買い求めたり、愛情を乞うならば、そうした関係はわたしたちを決して幸せにしない。

 イエスのこの人に対する招きは、彼の生き方と、神との関わり方を変えることであった。イエスは、わたしたちの中と同様、彼の中に欠けたものがあることを见抜かれた。それは、われわれが心に抱く「爱されたい」という愿望である。人间として、わたしたちは皆、一つの伤を持っている。その伤を通して爱が入ってくるのである。

 この欠かけたものを补うために、承认や、爱情、评価を「买う」必要はない。それに対して、自分を重くしているすべてのものを「売り払い」、わたしたちの心をもっと解放しなくてはならない。自分自身のために取り続けることをやめ、むしろ贫しい人々に与え、仕え、分かち合わなくてはならない。

 最後に、イエスはこの人を孤立しないように招かれた。イエスは、ご自分に従い、絆の中に留まり、関係を生きるようにと彼を招いたのである。こうすることで初めて、彼はその匿名性から抜け出せるだろう。われわれが自分の名前を耳にすることができるのは、誰かが自分を呼んでくれる関係の中だけである。わたしたちが孤立し続けるならば、自分の名前を呼ばれることもなく、わたしたちは匿名の 「この人 」であり続けるだろう。おそらく、今日、わたしたちは自足的で個人主義的な文化の中にあるからこそ、自分をより不幸に感じるのだろう。それは、自分を無償で愛してくれる誰かから、わたしたちの名前が呼ばれるのを聞くことがないからである。

 この人は、イエスの招きに応えることなく、一人で留まった。人生のバラストが彼を港に留めていたからである。悲しみとは、彼が旅立てなかったしるしである。时に豊かさだと思っていることが、自分を妨げる重荷でしかないことがある。希望とは、わたしたち皆がそうであるように、遅かれ早かれ、この人が自分を変え、冲に出ることである。

 姉妹たち、兄弟たち、悲しみ、决断できないでいるすべての人をイエスの圣心に委ねよう。优しさをもってわたしたちを见つめ、心を动かされる主の爱に満ちた眼差しを、彼らが感じることができますように。

09 4月 2025, 21:38