イエスと徴税人ザアカイの出会いを考察、教皇一般謁见カテケーシス
教皇フランシスコが、4月2日(水)の一般謁见のために準备したカテケーシスのテキストが、バチカン広报局より発表された。
この日は、「わたしたちの希望、イエス?キリスト」をめぐるカテケーシスの「第2章 イエスの生涯?出会い」の3回目として、ルカ福音书19章のイエスと徴税人ザアカイとの出会いが考察された。
カテケーシスの要旨は次のとおり。
福音书に登场する人々とイエスとの出会いについて、観想を続けよう。今回はザアカイの姿に焦点をあてたい。これはわたしの霊的な歩みにおいて、心の中に特别な位置を占めるエピソードでもある。
ルカ福音书で、ザアカイはどうしようもなく絶望した人として描かれる。わたしたちも彼のようにまったく希望がないように感じることがあるだろう。しかし、ザアカイは、主が自分を前から探しておられたことを知るようになる。
実际、イエスは、冥界の象徴とされていた海抜下の町、エリコに下られた。そこへイエスは絶望した人々を探しに行くことを望まれた。実は、復活の主は今も、今日の冥界へ、戦场へ、无実の人々の苦しみの中へ、子を失った母の苦しみの中へ、飢饿や贫困の中へ降りて行かれるのである。
ザアカイはある意味、意気消沉していた。それは、间违った选択からかもしれないし、抜け出せない状况に人生が彼を追い込んだのかもしれない。福音记者ルカは、この人物の特徴を强调している。彼は徴税人、すなわちローマの侵略者たちのために同胞から税金を巻き上げる者であっただけでなく、その徴税人の头でさえあった。そのために、彼の罪はますます大きくなるようなものであった。
ルカはさらに、ザアカイが金持ちであることを付け加えることで、彼が自分の立场を利用して、人々の犠牲の上に金持ちになったことを示唆している。しかし、その结果、おそらくザアカイは谁からも相手にされず、軽蔑されていると感じていただろう。
ザアカイは、イエスがこの町を通られると知って、イエスを见たいと思った。イエスと会おうとまでは思いつかず、彼にとっては远くから一目见るだけでも十分だった。しかし、わたしたちの望みは时に障害に出会うものである。とんとん拍子には実现しない。ザアカイは背が低かったのである。これがわれわれの现実であり、自分の限界と向き合わなければならない。そして、他者の存在がある。彼らは必ずしも助けてはくれない。群众はザアカイがイエスを见ようとするのを妨げた。それは彼らの小さな仕返しだったのかもしれない。
しかし、强い愿望がある时、人は容易には屈しない。何らかの解决を见つけるものである。しかし、そこでは勇気を出し、耻を気にしないことが必要である。子どものような単纯さと、自分がどう思われるかをあまり考えないことが肝心である。ザアカイはまさに子どものように、木の上に登った。そこは见晴らしもよく、叶の茂みに隠れて、人目を気にせずにいられる场所であったに违いない。
しかし、主のおられるところには、いつも予期せぬことが起きる。イエスはそこを通りかかった时、眼差しを上げられた。ザアカイは见つかってしまったと思い、おそらく人々の前で叱责されると考えただろう。人々がそれを望んだとしても、その期待は里切られるだろう。イエスはザアカイに急いで降りて来るように命じられた。木の上のザアカイに惊かれたように、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19.5)と言われた。神は失望した人に会わずして通り过ぎることはできない。
ルカはザアカイの心の喜びを强调している。それは、见つめられ、认められ、何よりもゆるされたと感じる人の喜びである。イエスの眼差しは叱责の眼差しではなく、いつくしみの眼差しである。そのいつくしみこそ、わたしたちがしばしば受け入れるのに苦労するものである。特にわれわれの目にはゆるすにふさわしくない人々を神がゆるされる时に感じることである。わたしたちが阴でつぶやくのは、神の爱に制限を设けたいためである。
家の场面で、イエスのゆるしの言叶を闻いたザアカイは、死んだ状态から復活したかのように立ち上がる。彼は立ち上がり、だまし取っていた金を四倍にして返すという约束をした。それは罚に対して払うものではなかった。なぜなら神のゆるしは无偿だからである。それは自分を爱してくれた方に倣いたいという热望であった。ザアカイは热望する人であるだけではなく、具体的な一歩を踏み出せる人でもあった。彼の目的は一般的でも抽象的でもなく、彼のストーリーそのものに根ざしていた。彼は自分の人生を见つめ、どこから自分が変わるべきかを见极めることができたのである。
亲爱なる兄弟姉妹の皆さん、たとえ気おくれを感じても、自分は変われないと思っていても、决して希望を失わないことをザアカイから学ぼう。イエスに会いたいという望みを育もう。どんなに道に迷っていても、必ず探しに来てくださるいつくしみ深い神に、わたしたちを见つけていただこう。