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教皇フランシスコ 2025年2月1日 聖年の巡礼者への謁見 バチカン?パウロ6世ホール 教皇フランシスコ 2025年2月1日 聖年の巡礼者への謁見 バチカン?パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

圣年の巡礼者の謁见:教皇「マグダラのマリアから希望を学ぼう」

教皇フランシスコは、2月1日(土)、圣年の巡礼者のための週末の謁见を行われた。

 教皇フランシスコは、2月1日(土)バチカンのパウロ6世ホールで、圣年の巡礼者のための週末の謁见を行われた。

 この「圣年の土曜日の謁见」は、圣年中にローマを访れる巡礼者たちのために、毎週水曜日の一般謁见に加え、隔週を目安に土曜日に开催されるもの。

 土曜日の謁见では、教皇は圣年のテーマ「希望の巡礼者」に沿って、「希望」を様々な角度から考察するカテケーシスを行われる。

 教皇はこの日、「希望するとは、向き直ること。マグダラのマリア」をタイトルに讲话された。

 教皇のカテケーシスの要约は以下のとおり。

 圣年は人々にとって、そして世界にとって新たな始まりである。圣年は、神の梦においてすべてを捉え直すべき时である。「回心」という言叶は方向の転换を意味する。すべてを别の视点から眺められるようになることで、わたしたちの歩みも新しい目标に向かうことができる。こうして、决して欺かない希望がわき上がる。

 圣书はこのことについて様々な形で语っている。わたしたちにとっても信仰の体験は、人生において自分を変えることを知った人たちとの出会いによって刺激されてきた。彼らは言わば、神の梦の中に入った人たちであった。

 こうした意味で、福音書におけるマグダラのマリアの姿は、誰よりも際だつものである。イエスはいつくしみをもって彼女をいやし(参照 ルカ8,2)、それにより彼女は変わった。いつくしみは心を変容する。マグダラのマリアはいつくしみによって神の夢の中に導かれ、それは彼女の歩みに新たな目標をもたらした。

 ヨハネ福音书が语るマグダラのマリアと復活されたイエスとの出会いは、わたしたちに考察を与えるものである。そこでは何度もマリアは「振り向いて」いる。最初、マリアは泣きながら墓の中を见ていた。この后、彼女は振り返る。復活されたイエスは死の侧でなく、いのちの侧におられた。マリアはそこにいた人を普段见かける人の一人だと思ったかもしれない。そして、福音书は、イエスがマリアの名を呼んだ时、マリアが再び振り向いたことを记している。

 こうしてマグダラのマリアの希望はふくらんだ。今はもう墓を最初のようには见ていない。今や彼女が涙を乾かせるのは、师しか呼べない形で、自分の名前が呼ばれるのを闻いたからである。古い世界はまだそこにあるように见えても、もうそれは存在しない。

 わたしたちの心の中で圣霊が働く时、主が名前で呼んでくださるのを闻く。わたしたちは师の声を闻き分けることができるだろうか。

 「使徒の中の使徒」と呼ばれたマグダラのマリアから希望を学ぼう。新しい世界に入るには、何度も回心する必要がある。わたしたちの歩みは、絶えず展望を変えるようにと招く。復活された主は、わたしたちを一歩一歩、ご自身の世界へ导いてくださる。わたしたちがすでにすべてを知っているかのように振る舞わない限りは。

 今日ここで寻ねよう。わたしは物事の见方を変えることができるだろうか。自分は回心の望みを持っているだろうか。

 自信过剰でプライドの高すぎる自己が、復活されたイエスを认めることを妨げる。今日でも、イエスの姿は、わたしたちが気にもかけない普通の人の姿である。わたしたちは、泣いたり絶望している时でさえも、イエスを置き去りにしてしまう。

 过去の闇や墓の虚しさを见つめず、いのちに向き直ることを、マグダラのマリアから学ぼう。师はそこで待っておられる。わたしたちの名はそこで呼ばれる。

 现実生活には、わたしたちの居场所がある。あなたのために、わたしのために、谁のためにも居场所がある。谁もそれを取り上げることはできない。なぜなら、それは前からわたしたちのために考えられた场所だからである。一人ひとりがこう言うことができる。「わたしには居场所がある。わたしと言う存在は一つの使命なのだ」と。

 自分の居场所とは何なのか、どのような使命を主はわたしに与えられるのかを考えてみよう。こうした考えが人生で勇気ある态度をとるための助けとなるように。

01 2月 2025, 15:10