「わたしたちの希望、イエス?キリスト」を新たな主题に、教皇一般謁见
教皇フランシスコは、12月18日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで一般謁见を行われた。
「希望の巡礼者」をテーマとする2025年の圣年を背景に、教皇はこの謁见から、「わたしたちの希望、イエス?キリスト」を主题とする新しいカテケーシスのシリーズを开始された。
この日はその初回として、「イエスの系図(1,1-17)。歴史に入られる神の御子」をテーマに、讲话を行われた。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
今日から、圣年を通して続けられるカテケーシスの新しいシリーズを始めよう。その主题は「わたしたちの希望、イエス?キリスト」である。事実、イエスはわたしたちの巡礼の目的地であり、イエスご自身が道であり、わたしたちが进むべき道のりである。
最初の部分では、福音記者マタイとルカが語る「イエスの幼少期」(参照 マタイ1–2; ルカ1–2)を取り上げたい。
イエスの幼少期の福音は、イエスの受肉から、おとめマリアの胎からの诞生が语られる。それはイエスにおいて成就するメシアをめぐる预言を思い起こさせるものである。福音は法的な父、ヨセフの系図を记しつつ、神の子がダビデの家系という株に「接ぎ木」されたことを示している。
福音では、イエスの幼少期は、乳饮み子、幼子、少年の姿が示される。イエスは両亲に従うと同时に、自身が御父とその御国に捧げられていることを自覚している。二人の福音记者の违いは、ルカが一连の出来事をマリアから见て语っているのに対し、マタイはそれをヨセフから见て语ることで、これまでにない形のヨセフの父性を强调している。
マタイの「アブラハムの子ダビデの子、イエス?キリストの系図」(マタイ1,1)をもって、マタイ福音はもとより、新约圣书全体が开いていく。この系図は、ユダヤ教の圣书にすでに现れている名前のリストであり、これによって、歴史の真理と人间の営みの真理を示そうとするものであった。
実際、主の系図は真の歴史によって成り立つがゆえに、その中には複雑な背景の人物がいたり、ダビデ王の罪が強調されていたりする(参照 マタイ1,6)。しかし、すべてはマリアとキリストのもとで止まり、そこで花開いていくのである。
また、人间の営みの真理は、世代から世代へと移りながら、次の叁つのことを伝えている。それは、それぞれのアイデンティティーと使命を秘めた名前と、一つの家系、民族への所属、そして最后に、イスラエルの神への忠実な信仰である。
系図とは文学の一种と言える。それは谁もが自分の力だけでいのちを得ることはできない、いのちは他の人々から赠られたものである、という重要なメッセージを伝えるのに适した形をしている。
男子の名前だけが登场する旧约圣书の系図と异なり、マタイ福音书の系図はイエスの祖先の中に女性たちも登场する。これらの女性たちは、タマルと、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻バト?シェバ、そして最后にヨセフの妻、ナザレのマリアである。このマリアからメシア、イエスがお生まれになった。
最初の4人の女性たちは、イスラエルの民に対して异邦人であるという共通点がある。ベネディクト16世が记したように、マタイ福音书が浮かび上がらせているものは、「彼女たちを通して、イエスの系谱の中に异邦人の世界が入って来た、イエスのユダヤ人と异邦人に対する使命が目に见える形になった」(『イエスの幼年时代』2012,15)ということである。
最初の4人の女性たちが、彼女たちから生まれた人、あるいは彼女たちを产んだ人に结び付けられて言及されているのに対して、マリアは特别に际立っている。マリアは新たな始まりをしるしている。マリア自身が新たな始まりなのである。なぜならマリアの场合において、その世代の主役はもはや被造物としての人间ではなく、神ご自身だからである。
これらのことを「生まれた」という動詞に見ることができよう。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1,16)。イエスは、イスラエルのメシアとなるように運命づけられたダビデの子孫の中に、ヨセフを通して接木された。イエスは「ダビデの子」であると同時に「アブラハムの子」である。そして、「異邦人を照らす光」(参照 ルカ2,32)となるように定められた、「異邦人の女性たちの子」であった。
神の御顔を示すという使命(参照 ヨハネ1,18 、同14,9)をもって、御父に捧げられた神の御子は、人間のすべての子らと同じようにこの世に入って来られた。実際、ナザレでは「ヨセフの息子」(ヨハネ6,42)、「大工の息子」(マタイ13,55)と呼ばれるようになる。まことの神は、まことの人間であった。
自分の中に先祖に対する记忆を感谢と共に呼び覚まそう。そして、特に神に感谢を捧げよう。神は、母なる教会を通して、わたしたちを新たないのちに、わたしたちの希望であるイエスのいのちに生んでくださったからである。