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「すべての命を守り、抱拥し、受け入れよう」教皇、东京ドームでミサ

教皇フランシスコは、东京ドームでミサを捧げられた。

教皇フランシスコは、访日3日目の11月25日午后、东京ドームでミサを捧げられた。

このミサには、日本全国からおよそ5万人が参加、会场は热気であふれた。

东京ドームに到着された教皇は、特别车パパモービルの上から、子どもたちをはじめ、参加者らに祝福を与えつつ、会场を一周された。

ミサの説教で、教皇は、先に朗読された「マルコによる福音书」(6,24-34)の、イエスの「山上の説教」中の「神と富とに仕えることはできない」「思い悩むな」の箇所を取り上げられた。

イエスの「山上の説教」は、わたしたちが歩むよう招かれた道の美しさを説くもの、と教皇は述べ、圣书によれば、山は、神がご自身を明かし知らしめる场所であり、その山顶には、分かれ道で师なるかたに、注意深く忍耐をもって闻くことによってのみ到达できる、と话された。

そして、教皇は、わたしたちはイエスにおいて、人间とは何かを明らかにする山顶と、完成に至る道を见いだすことができる、と话された。

しかし、この道のりにおいて、不安と竞争心、生产性と消费への热狂的な追求、すべてを作り出し、征服し、コントロールできると信じる热望が、わたしたちの心を抑圧し、缚りつけている、と语られた。

教皇は、この日行われた青年との集いで、経済的に高度に発展した日本の社会において、孤立している人が决して少なくなく、いのちや自分の存在の意味を见いだせず、社会からはみ出していると感じていることに気付かされた、と述べた。

教皇は、利益と効率を追求する过剰な竞争意识によって伤つき、过剰な要求や、不安に打ちのめされた、多くの人々を见つめられた。

山上の説教で、イエスは、自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6?25、31、34参照)と、叁度にわたって力强く呼びかけていることを教皇は指摘。

「思い悩むな」とは、周りに无関心であれ、自分の务めに无责任であれといっているのではない、むしろ、展望に心を开き、そこにもっとも大切なことを见つけ、主と同じ方向に目を向けるための励ましである、と説かれた。

「孤立し、闭ざされ、息ができないわたし」に抗しうるものは、「分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち」しかない、と教皇は强调。

キリスト者の共同体は、すべてのいのち、すなわち目の前にあるいのちを守り、抱拥し、受け入れる态度を、あかしするよう招かれている、と教皇は话した。

障がいをもつ人や、弱い人、よそから来た人、间违いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、爱するに値しないのですか?と问う教皇は、イエスが、重い皮肤病の人、目の见えない人、からだの不自由な人、ファリサイ派の人、罪人、十字架にかけられた盗人すらもご自分に引き寄せ、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされた、ことを思い起こさせた。

いのちの福音を告げるよう、わたしたちは求められ、駆り立てられている、と述べた教皇は、それは、共同体として、伤ついた人をいやし、和解とゆるしの道をつねに示す、野戦病院となること、と説かれた。

キリスト者にとって、人や状况を判断する际の唯一の基準は、神がすべての人に示される、いつくしみという基準である、と教皇は语った。

主に结ばれ、善意あるすべての人、また、异なる宗教を信じる人々と、协力と対话を重ねるならば、わたしたちは、すべてのいのちを守り世话する、社会の预言的パン种となれるだろう、と话された。

説教に続く共同祈願では、長崎でのミサと同様、各国語(英語、ベトナム語、日本语、韓国語、タガログ語、スペイン語)で祈りが唱えられた。

ミサの终わりに菊地功?东京大司教が教皇に感谢の挨拶を述べた。

大きな感动のうちに、东京での教皇ミサは终了した。

东京ドームでの、ミサにおける、教皇フランシスコの説教全文は、以下のとおり
(カトリック中央协议会訳)

***

教皇の日本司牧访问
教皇の説教
东京ドーム
2019年11月25日、东京

 今闻いた福音は、イエスの最初の长い説教の一节です。「山上の説教」と呼ばれているもので、わたしたちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。圣书によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる场所です。神はモーセに、「わたしのもとへ登りなさい」(出エジプト24?1参照)と仰せになりました。その山顶には、主意主义によっても、「出世主义」によっても到达できません。分かれ道において师なるかたに、注意深く、忍耐をもって丁寧に闻くことによってのみ、山顶に到达できるのです。山顶は平らになり、周りがすべて见渡せるようになり、そこはたえず新たな展望を、御父のいつくしみを中心とする展望を与えてくれるのです。イエスにこそ、人间とは何かの极みがあり、わたしたちの考えをことごとく凌驾する充満に至る道が示されています。イエスにおいて、神に爱されている子どもの自由を味わう新しいのちを见いだすのです。

 しかし、わたしたちはこの道において、子としての自由が窒息し弱まるときがあることを知っています。それは、不安と竞争心という悪循环に陥るときです。息も切れるほど热狂的に生产性と消费を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の选択の评価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを无関心、无感覚にし、心を表面的ではかないことがらへと向かうよう押しやるのです。何でも生产でき、すべてを支配でき、すべてを操れると思い込む热狂が、どれほど心を抑圧し、缚りつけることでしょう。

 ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を见いだせず、社会の隅にいる人が、决して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える场であるべきなのに、利益と効率を追い求める过剰な竞争によって、ますます损なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。过剰な要求や、平和と安定を夺う数々の不安によって打ちのめされているのです。

 力づける香油のごとく、主のことばが鸣り响きます。思い烦うことなく、信頼しなさい、と。主は叁度にわたって繰り返して仰せになります。自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6?25、31、34参照)。これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の务めや日々の责任に対していい加减でいなさいといっているのでもありません。それよりも、意味のあるより広い展望に心を开くことを优先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。「何よりもまず、神の国と神の义を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6?33)。

 主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の选択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。世俗の姿势はこの世での己の利益や利润のみを追い求めます。利己主义は个人の幸せを主张しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に调和のある人间的な社会の発展をはばむのです。

 孤立し、闭ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません(「一般謁见讲话(2019年2月13日)」参照)。主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、『わたしたちの现実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに认めることです。それは今日の、自分のものは自力で获得するとか、自らの発意と自由意志の结果だと思い込む世界では难しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。それゆえ、第一朗読において、圣书はわたしたちに思い起こさせます。いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される创造主からのすばらしい赠り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。见よ、それはきわめてよかった」(创世记1?31)。与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し出すためのものです。わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの创造的な梦にあずかる者なのです。「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友爱、正义、他者への诚実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート?シ』70)のです。

 この现実を前に、キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。知恵と勇気をもって、无偿性と思いやり、寛大さとすなおに耳を倾ける姿势、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実际に目前にあるいのちを、抱拥し、受け入れる态度です。「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず见られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま」(「ワールドユースデーパナマ大会の前晩の祈りでの讲话(2019年1月26日」)引き受けるのです。わたしたちは、この教えを推し进める共同体となるよう招かれています。つまり、「完全でもなく、纯粋でも洗练されてもいなくても、爱をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、爱するに値しないのですか。よそから来た人、间违いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、爱するに値しないのですか。イエスは、重い皮肤病の人、目の见えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」(同)。

 いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに强く求めます。それは、伤のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準备のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、个々の人や状况を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。

 善意あるすべての人と、また、异なる宗教を信じる人々と、絶えざる协力と対话を重ねつつ、主に结ばれるならば、わたしたちは、すべてのいのちを、よりいっそう守り世话する、社会の预言的パン种となれるでしょう。

25 11月 2019, 13:26